シネ・ネグロス特別編
 
 


スペシャル・インタビュー by  Prof.Mario Marsili
翻訳 オホス・ネグロス

第一回

 
ベニト・ステファネリ
 Benito Stefanelli

1928 - 1999

スタント監督 スタントマン 俳優 銃器指導 馬術指導…
-少年時代の夢をマカロニウェスタンに託した男-



ロケ地研究友達で、ドイツ在住のイタリア人、マリオ・マーシリ氏が特別なインタビュー記事を送ってくれました。
ぜひ日本のマカロニファンの仲間にも読んでもらいたい…そう思いつつ、マリオ氏にこのHPでの公開をお願いしたところ、快諾していただき、
翻訳は、われらがアミーゴ オホス・ネグロス氏に、お願いしました。
たくさんの翻訳記事をかかえながらも、忙しい中、とても読みやすい記事に翻訳してくれました。
ほんとうにありがとう!


Garringo



1999年の夏、私はアルメリアに旅行し、レオーネ、ソリーマ、ダミアーニなどが傑作マカロニウエスタンを撮影したロケ地を探すことにしていた。
私には大胆なアイディアがあった。まず最初に当時関わったアーチストと話せないものかと。
ローマから数キロ離れた自宅に腰かけ、電話帳を手にしてみた。私の知っているいくつかの名前を繰ってみると、
そのなかに「STEFANELLI BENITO」とあったのだ!スゴイ!またセルジオ・ソリーマの名前も見つけた。

電話を手にし、ダイヤルした。彼がすぐに出てきて、私は・・・何も考えていなかったのだ!私はなんとか彼に、自分がマカロニ・ウエスタンマニアで、
ロケーションなどについて、話が聞きたがっていると分かってもらえた。彼はおだやかに、しかしはっきりと返事した。
もし仕事の話なら、時間を割いても正確なことは覚えていないと。それで私はそうじゃない、純粋にアマチュアとして知りたいだけで、別の日でも良いと話した。
彼は私の電話番号を尋ね、私は感謝して電話を切った。

気持ちが混乱したまま、私は部屋を出て、妻が大事にしているバラに水をやるため、庭に出た。数分後、電話が鳴るのが聞こえたが、
その時あいにく私はちょっと離れた場所にいたのだ。留守電がいいようにしてくれているだろう。30分後、庭仕事を終え、
部屋に戻ると留守電の赤いランプが点滅していた。録音ありだ。再生ボタンを押し、メッセージを聞いた。
「マリオ・マーシリさん、ベニト・ステファネリだ。これからサクロファノにある私の農場へ昼食をとりにいくんだが、そこで今日なら会えるよ。」

爆!スパイダーマンでさえ、トロいくらいだ!私はワープ速度で車にダッシュし、地図を片手にフラミニア街道からサクロファノへと向かった。
そして「ステファネリ・マルコ・フィルムズ」と書かれた看板を見つけた。草木の生い茂る丘、渓谷、草地などの間を車で通りぬけ、傾斜を下ると
彼の農場の入り口が見えた。まさにマカロニ・ウエスタンだった。大きなキャビン、厩、あらゆるワゴンがあった。
デカイ犬が私の車に近づいてきた。どうすればいい?臆病者として逃げるか、クリントのようにふるまうか?
車からゆっくり降りると、犬を無視し、目の前のパティオにあるテーブルの方を向く演技をした。(そう、演技だ!拳銃なしでアリゾナに来てしまったんだ!)
テーブルでは数人が飯を食っていた。そこで私はすぐにベニトの見間違うことなき面構えを見つけたのだ!ゆっくりと私はテーブルの方へ歩を進めた。
まさにレオーネな状況だ。全員、突然の「よそ者」に気付き、食事を止め、あるものはグラスを宙に、あるものはゆっくりと口を動かしたまま、表情がこわばる。
沈黙の瞬間だ。「マリオ・マーシリです。伝言をいただきましたが、覚えておられます?」ベニトはすぐに「よく来たな、一緒にどうだ?」と言った。
私は木のベンチに腰かけ、豚肉を食べ、ワインを飲んだ。いい人たちに、いい雰囲気だった。
自己紹介の後、訪問理由を説明し、ベニトはビデオ録画を許してくれた。約2時間にもなった。

ベニトはこの後12月に亡くなった。10月にビデオ編集が終わり、彼に電話して、見せたいと伝えたが、彼は病院にいたのだ。
「それまで生きているかどうかわからないよ。」
後日、ベニト夫人に連絡し、彼女から彼が亡くなったと教えられたのだ。

ベニトは逝ってしまったのだ。セルジオ、コバーン、クリーフ、ヴォロンテ、ピスティリ、ブレガ、コルブッチ、ニコライ、キンスキーその他大勢がいるところへ




インタビュー

MM ベニト、クリント・イーストウッドとの仕事はどのようなものでしたか?

BS 彼は本物のプロフェッショナルだった。当時、現場に一緒にいたが、彼は自分の役を熟知していた。しかしいささか、社交的ではなかった。
彼は礼儀正しく、物静かだったよ。ところが「アメリカに帰るとバーで喧嘩するようなならず者なんだ」と彼は言っていた。
彼は動物が大好きだったよ。「夕陽のガンマン」の撮影中、休憩時間となると彼は座って犬とたわむれていた。
村の番人の犬だった。毛の中にはあらゆる虫が隠れていたよ。

MM リー・バン・クリーフはどうでしたか?

BS リーは社交的な人間だった。しかし何かと問題をかかえていた。知ってのとおり、アル中だったんだ。セルジオは彼が陥っていた
深みから彼を救い出したんだ。リーは仕事中は酒に手をつけないとセルジオに約束していた。セルジオはリーの面構えが好きだった。
昔、ハリウッド西部劇、何と言っても「真昼の決闘」で見たことがあったんだ。レオーネは顔にこだわった。ブロンソンみたいな顔だね。
最後にはブロンソンと映画を撮ってしまった。よく知っているだろ。しかし、リーはイタリア語が話せなかったから、
私たちと本当にうちとけることはなかったね。

MM 以前聞いたのですが、リーは金に執着した意地汚い人間だったのですか?

BS そんなことはない、実は本当に意地汚いのはイーライ・ウォラックだったよ!とはいえ、私たちの中でリーに食事や酒に誘われた
ヤツはいなかった。多くのアメリカ人俳優はそうだった。唯一誘ってくれたのは、ジェイソン・ロバーツだった。
「ウエスタン」の撮影中、彼は私たち一団を再三、ディナーに招待してくれた。本当にしみったれで、1ペニーにだって病的だったと言いたいのは、
ヘンリー・フォンダだ。まあ、マリオ、私たちはみんなお金の価値というものを意識している。しかしフォンダときたら、ケチンボぶりでは
イーライ以上だった。ある時、私はヘンリーとアルバカーキに買い物に行き、何枚かシャツを買ったんだ。シャツを持って行き、レジでこう言ったんだ。
「私はこの州に住んでいない。だから税金は払わない。」たった数セントだぞ!またある時、アルメリアからアメリカに行く前、
彼は個人的に安っぽい段ボール製のスーツケースを1組持っていたんだ。彼の衣装係が同じスーツケースを持っていた。モニュメントバレーに
衣装を運ぶためだ。行きだったか、帰りだったか、フォンダは彼のほうがスーツケースに数ドル余分に払っていたことに気付いたんだ。
そして口論が始まった。彼の金を取り戻そうとね。とんでもないよ。全部でたった数セントなんだよ。あと、何を知りたい?
彼は製作会社とびっくりするような契約を交わしていた。かなりの「日当」まで含まれているんだぜ。彼の妻も一緒だったが、
その経費も当然のことながら、製作会社が持っていた。イーライも面白いヤツだった。私たちは夜毎に1、2杯ひっかけようと、
ホテルのバーをぶらついていた。するとイーライは私たちの回りでひっきりなしにブツクサ言うんだ。結局、私たちの誰かが彼に声をかけるまでね。
「イーライ、一杯どうだい?」すると彼は「いいね、ありがとうよ。」って喜んで答えるんだ。彼はいつも誰かが飲みに誘ってくれるのを待っていたが、
自分から声をかけることは決してなかったね。

MM セルジオ・レオーネはどんなタイプの人間でしたか?自分自身が天才だと知りながら、人間味あふれる振るまいをしていましたか?
それとも偉そうな感じを振りまく、尊大な人物でしたか?

BS 自分自身を押し出す内なる力がなければ、頂点にはたどりつけない。プリマドンナみたいにね。誰よりも自分が愛せないなら、
プリマドンナにはなれない。しかしレオーネは文化的な人間で、はっきりとした論法があった。彼は話し、人を納得させることができた。
誇大妄想なくしては、彼を語れないが、これは自分の目標にたどり着くには必要なことさ。成功を求めるならね。
こいつは持ってようが、持ってまいが、天性なんだよ。

MM レオーネとはどうやって知り合われたのですか?

BS マカロニ・ウエスタン以前から知り合いだった。ローマのスタジオではお向かいだったし、他の時にも出会った。
マドリッドにいたある日、朝の4時に大通りで出くわしたんだ。するとレオーネに「ウエスタンを撮影しているところなんだ。
来ないか?」と聞かれたから、すぐ引き受けたんだよ。それまでに私が2本のウエスタンに出演していたことをレオーネは知っていた。
ティナ・プリカの「保安官(La Sceriffa)」とマウリツィオ・アレナの「オクラホマの恐怖(IlTerrore dell'Oklahoma)」だ。
「荒野の用心棒」を撮影した時、私は36才で、すでに「武器の専門家(Maestro d'Armi)」で、乗馬もあらゆる射撃も知っていたんだ。

MM「荒野の用心棒」はトラブル続きだったとのことですが・・・・

BS 最初からそうさ、第1週ですでに金が来なかった。二人のプロデューサー、パピとコロンボがセルジオと汚いことをやっていたんだ。
「用心棒」のストーリーは覚えているだろ。イタリアの製作会社が日本人から訴えられたんだ。興行収入は裁判所に差し押さえられた。
そしてパピとコロンボは黒澤映画のパクリとは知らなかったと声明を出した。それどころか、レオーネはこの基本的な事実を自分たちに
明かさなかったと主張したんだ!法廷で彼らはきっぱりと責任を否定したんだ。しかし同時に彼らは自分の足を撃ってたんだよ。
彼らは気付いていなかった。「荒野の用心棒」に続編が出来て、大成功するとはね。彼らは完璧にレオーネをダウンさせ、
そして高い犠牲を払うことになった。ドル3部作の次作でどれだけ稼げたことか!
レオーネは法的な問題が片付くと、PEAプロダクションのアルベルト・グリマルディと「夕陽のガンマン」を始めたんだ。

MM なぜ、レオーネはすでにあった脚本を使ったんでしょう?

BS 何もレオーネが初めてじゃない。「七人の侍」はどうなった?しかし権利金を払わずに、脚本を使ったとしたら、それは別のストーリーさ。
特にそれが世界中で、日本でさえ大ヒットとしたとすればな。パピとコロンボはバカだったのか、繊細だったのか、もしくはその両方だな。
それは分からんよ。しかし、2人がちょっとしたカネを日本側に払っていたら、面倒事は起きなかったんだ。
似たような映画ってことに気付いたら、それでおしまいさ!

MM しかし、「夕陽のガンマン」を作った・・・

BS そう、「夕陽のガンマン」を作って、大成功をおさめた・・・。あの時はこんなだった。私は扁桃腺の手術のため、病院にいたんだが、
セルジオが電話してきて、叫ぶんだ。「ベニト、すごいぞ、チャンスがやって来た!」ローマの映画館では、すでに観客があふれかえっているのに、
みんな力づくで入ろうとしていたのを覚えているよ。入り口のドアなんか取り払われていた。パピとコロンボがフェアな仕事をしていたら、
続編でどれだけの金がはいったことか。セルジオにとって「荒野の用心棒」を最初、形にしていくのがどれだけ大変だったか、想像できるかい。
どうしてか?プロデューサーは町にやってくる男のくだりを読む。ロバに乗って(ロバだ?)、ポンチョを被り(ポンチョだって?)、葉巻をくわえている。
(葉巻??)う〜ん?私たちは古いセンスにとらわれていた。ホパロング・キャシディのようなね。クリーンで輝くようなヒーローだ。
しかしクリントはあっちこっちと渡り歩き、みんなから金をせしめる。自分たちが似たような状況になれば、実際にやるようなことをするんだ。
観客はクリントの中に自分自身を見出すのさ!トム・ミックスの時代は終ったんだ。それから服もな。エレガントでシミ1つないアメリカン・ヒーローよ
さようなら。クリントはロバに乗ってやってくるんだ。あのラバの話を知っているかい?私はよれよれの馬を探していた。
本当に捨てられる直前みたいなヤツさ。それをマドリッドで見つけたんだ。このラバが石炭の馬車を引っ張っているのを見たんだ。
それで馬車の男に言ったんだ。「この馬が映画の撮影に要るんです。」「バカにしてんのか?」って言われたよ。
「いいえ、全然そんなことありません。このオフィスへ来てください。お支払いしますから。」
「荒野の用心棒」を撮影している時、このラバが足元を撃たれて、跳びはね、蹴り上げさせる必要があった。それで私はタワシをサドルの
下に押しこんでおくことにした。そうして、合図でクリントがサドルに座ることになっていた。タワシに力が加わることで、
チクチクしてラバが嫌がると思ったんだ。・・・ダメだった。仕事にならなかった。このラバは生ける屍だった。仕掛けを試し、タワシを
ラバに押しつけると、ラバはヒヒヒヒといななき、地面にへたりこんでしまった。
何てこった。それで跳びはね、蹴り上げる部分はとばさなくてはならなかった。

MM マカロニ・ウエスタン、特にあなたが再デザインしたものに、ガンファイトがあると思います。
イーストウッドがバクスターの手下を一掃するシーンです。フルサイズでピストルのファニングを見せてしまう。
あれはウエスタンの世界にとって革新的でした。

BS そう、レオーネはあの瞬間から世界を征したんだ。映画館でみんなイスから飛びあがったのを覚えている。ガンテクニックに驚き、
感動したんだ。言わせてもらえるなら、私の貢献は特別な死に方の1つを生み出したことさ。撃たれた人間の回転も考え出した。「スピン」だよ。
普通のアメリカ西部劇では、撃たれたヤツは空気の抜けたタイヤみたいに崩れ落ちる。複数の標的がいるなんて、アメリカ西部劇では
滅多にお目にかかれなかった。クリントはとても訓練されていて、引き金を引いたまま、ファニングしていた。ハンマーをコッキングすると、
バンバン!クリントは1人の悪人だけしか撃たなかったか。いいや、彼のキャラクターには人間性以上のものが必要だった。
彼は複数の敵を撃たなくちゃならないんだ。

MM ジャン・マリア・ヴォロンテについて、どのようにお考えですか?

BS 多くの舞台俳優同様、ちょっと変わっていた。自分のやっていることを信じていた。センチメンタルな人間なんだ。左翼だったよ。
まあ60年代、芸術界にいる人間はみんなそうだった。彼には内なる精神世界があった。それが時々顔をだした・・・。見物人の問題があったんだ。

MM あなたは全てのレオーネ作品に参加されていますが、「復讐のガンマン」や「怒
りの荒野」といった重要なマカロニ・ウエスタンにも出演されていますね。

BS 「怒りの荒野」ではサント役(Il Santo)だった。手放しで馬に乗って、クリーフとライフルの弾込め決闘をやるんだ。
そう、私はマカロニ・ウエスタンではいつも「悪役」だった。セルジオにこう言ってたことを覚えているよ。
「セルジオ、さっさと殺して、仕事に移らしてくれ。スタントに馬にピストルと忙しいんだ。さっさと殺してくれ。」
時々、一週間早くロケ現場に行ってたよ。すべてがスムースに運び、一度で撮影が出来るようにね。レオーネは山ほど撮影した。
「こいつを何度撮影するつもりなんだ?」編集室で彼はリールの山とフィルム・ケースに埋もれていたよ。

MM それでアルメリアで生活されたのですか?

BS 時には映画を撮影したい地点まで80、100、120キロとドライブしたよ。夜にアルメリアのいくつかのホテルで
(もしくはたった1つのホテル、グラン・ホテル)私たちは集まり、編成された。たいていはしこたま飲んでいた。
私は若かったし、言わんとすることは分かるな、アルメリアには映画産業があった。多くの外国人がいたし、外国人の女の子も多かった。
それで夜は忙しかったのさ。メキシコ人風の顔が必要になったら、アンダルシアのジプシー、ジタンたち
は私たちの目的にぴったりだった。しかし「英国人」顔が必要になったら、時々イギリスやオランダのツーリストの中から見つけていた。
アルメリア近辺でバケーションに集っていた人たちだ。初老の婦人の多くはバケーションに金を払い、
私たちの作る映画で役を引きうけてくれた。通りに並ぶ普通の人たちみたいな小さな役をね。
アンダルシアじゃ、私たちの必要とするアングロサクソン顔はツーリストか隠居したイギリス人から見つけ出していた。
彼らはこの地方での生活が良かったんだ。私たちにはスベイン人の募集係がいて、そういった人たちの住まいを探して、小さな役をオファーするのさ。
ある時、「怒りの荒野」の仕事でアンダルシアのあるホテルにいた。その時、8人(!)ものマカロニ・ウエスタンのスタッフをいたんだ。
みんなそれぞれの仕事で忙しかった。どんなか、想像できるかい?スペイン人のサポートは素晴らしかった。1本の電話で必要なものが全部揃うんだ。
馬に、乗り手に、衣装に、車だよ。アルメリアは映画が引き寄せられる場所だった。何一つ問題がなかった。
私たちはユーゴスラビアでウエスタンを撮影したこともあったが、馬の貧相だったこと。見た目哀れなんだ。面白みがなかった。
スペインの馬は違う。ちょっと一打ちで、ダッシュした。頭が良くて、おとなしかった。しかし支払いは現金払いでなくてはならなかった。
スペイン人はこの点は譲らなかった。しかしパーフェクトだったし、いつでもプロフェッショナルなサービスを提供してくれたね。

MM 他に当時のエピソードがありますか?

BS スタントをやって背骨をケガしたヤツに、セルジオは良心の呵責があった。「夕陽のガンマン」の時のことだ。モーティマー大佐が登場し、
悪党がバルコニーから飛び降りるシーンがあっただろう。ヤツは地面に飛び降りると、馬の背中に飛び乗り、馬で逃げる。セルジオは
もっと難しいことを望んでいた。彼は悪党がバルコニーから飛び降り、サドルに直接、乗っかって欲しいと言ったんだ。
カッティング無しでね!1シーン1カットでだ!それはダメだと言ったよ。高いところから飛び降りて、その着地場所にちゃんと馬を止めておくことなんて
出来ないとね。馬は人に気付いて、動きだすさ。それに足を開いたまま、サドルに着地するなんて出来っこない・・・。
キンタマのことを考えてみろ!もしサドルホーンなんかに強打でもしたら・・・。この手のシーンは普通、カットを入れて編集するんだ。
まずバルコニーから飛び降りる、それからサドルに着地する別のクローズショットになるんだ。そして馬が走り出す。そうすれば、落下も危険じゃない。
編集の問題なんだ。このことをレオーネと議論したよ。翌日にしようということになった。私は午後が空いたことに喜んで、現場を後にしたんだ。
翌日、現場に再び顔を出すと、すでに大混乱になっていた。サーカスで馬に乗っていたイカれたアメリカ人が
ワンテイクジャンプをやろうと申し出ていたんだ。レオーネはそんなことを私には言わなかった。
彼は飛び降り、サドルにしたたかにぶつけ、背骨をケガしたんだ。みんなで病院へ担ぎこんだが、
その後の彼のプロとしてのキャリアはパーだ。なぜだ、なぜこんなことが起きる必要があったんだ?
結局、私たちはスペイン人のスタントマンたちと普通のやり方でそのシーンを撮影した。



MM ウエスタンでフォンダの一味の1人が、彼に撃たれて、屋根から落ち、ひさしに体をぶつけて、地面に叩きつけられますが、
このシーンで彼はケガしたんじゃないでしょうか。首から地面に落ちたようにみえるものですから。

BS まさにそのとおりだ。彼はひどいケガをした。私たちは一度このスタントアクションを撮影し、全てうまくいってた。
ところがセルジオは3台のカメラを使って、「よしもう一度いこう」と言い出したんだ。「セルジオ、どうしてもう一回やるんだ?
あの通りうまく出来たと思うがな。」だめだった。もう一度やることになって、その男はひどいケガをすることになったんだ。
こんなこともあった。若僧の一団がむちゃくちゃにされるところだったんだ。私たちは本当にラッキーだった。
「夕陽のギャングたち」の時、コバーンとスタイガーが家族全員、スタイガーのガキどもと一緒に線路脇で馬に乗っていた。
アルメリアから来たプロの騎手の代わりに、馬上に慣れていないガキどもを乗せるなんてどうしたことだ?ってセルジオに激しく迫ったよ。
列車が迫ってくると、馬が驚いて大混乱になるからな。小っさいガキがサドルの上で安全に馬を操れるかい?無理さ!
特に危険なテイクのために小柄な騎手を見つけよう、と私は言ったよ。セルジオはOKし、1度テストすることにしたんだ。
列車は馬上の連中のところに背後から走ってきた。さあ、何が起こったと思う?馬はひどく暴れた。乗っているのがプロだから良かったんだ。
代わりにガキどもが乗っていたら・・・。ストレスっていうのは、映画づくりの一部さ。特にリーダーとしての天才的な資質があったりするとね。
もし君がリーダーに何か実行できないということを納得してもらわなくちゃならないなら、関係はいつもフレンドリーにはならない。
一般に従順なクルーはどんな状況下でもイエスと言う傾向にある。違った意見を提案するのは難しいんだ。

 

MM あなたのお考えでは西部劇を製作するということは、他のジャンルの映画を
作ることに比べて、価値があることなんですか?

BS そりゃそうさ、少なくとも私にとってはね。ごっこ遊びの魔力だよ。子供のころの夢を手に出来るんだ。カウボーイさ。

MM セルジオ・ソリーマはどうでしたか?

BS 真面目なプロフェッショナルで、何の問題もなかった。トーマス・ミリアンは別だった。彼はしばしば困らせてくれた。
いつも「復讐のガンマン」はお粗末な撮影だって言っていたよ。明らかに間違っているね。映画の出来は素晴らしかったし、
興行的にも大成功だった。セルジオ・ソリーマと私はクチリオのナイフの決闘の撮影方法を編み出した。どこにナイフを命中させるか?
解決しなくちゃならない問題の1つだったが、それを額にした。実際、ある外科医が私に言ったよ。あのスピードなら、ナイフは頭蓋骨を貫通するってね。
多少のリアリズムもあったわけだ。あの決闘には私の専門知識全てをつぎこんだ。クチリオの手の位置から、服に差すナイフの場所までね。

 

自分の仕事で満足できるちょっとしたことさ。「ウエスタン」の最後の決闘で、ブロンソンに撃たれたフォンダの回転みたいにね。

MM しかしああいったパターンは、アメリカ西部劇とマカロニ・ウエスタンとを判別するポイントとして、視聴者の目に映ってませんか?

BS そう、私たちが話していることに直結している。「暴力」の視覚化だよ。最初の一撃の後、アメリカ人も気に入り、私たちの暴力の解釈を
取り込むようになった。どんな映画にも悪党がいる。そいつにはある種の死を期待するだろ。悪行の報いを
受けなくちゃならない。死に方というのも私たちがするように描かれなくてはならないんだ。
セルジオ・レオーネは暴力を詳細に描くのが好きだった。例えば、「続・夕陽のガンマン」でマリオ・ブレガがテュコをひっつかみ、
イスに投げつけるだろ。その時、イスも一緒に回転したことに気付いたかい。回転はセルジオの暴力描写で重要な視覚効果なのさ。
誰かがテュコをイスに叩きつけ、彼を殴りつける・・・それじゃレオーネじゃない。イスは準主役でもあるのさ。「暴力」の効果が視覚的に
作り出せるよう最大限の関心を払っていた。テュコの目玉に押しこまれる親指も同じことさ。「セルジオ、ここまでしないだろ?」って聞いたよ。
するとセルジオは即座に言った。「そんなことはない!これが良いんだ!」ってね。

MM 総じて、レオーネとの仕事は良かったですか?

BS もちろんだよ。レオーネとの仕事はいつも大満足だった。したいように仕事をすることが出来た。ブロンソン相手でもね。「ウエスタン」の時のことさ。
ブロンソンが洗濯場で寝ていると、とっつかまって、叩きのめされる。レオーネは捕まえるところを目に見えるようにやってくれと言われた。
それで私はベッドの枠をつかった。こいつは鋳鉄の棒で出来ていて、ヘッドボードの真ん中に穴があいていた。ちょうど人間の頭がすっぽり入る広さだった。
ブロンソンの顔へのパンチは、観客に出来るだけダイナミックに見せたいと計算していた。そこで、パンチを受けた後、
ブロンソンの顔がこの鉄のバーに叩きつけられるようにした。これが次のアクションへの布石になるはずだった。
ブロンソンはこのアイディアに反対し、彼の顔が左右にパンチされる方が気に入っていた。ブロンソンは彼のやり方で撮影し、
レオーネもそのシーンを試写で見たが、満足しなかった。レオーネはブロンソンを呼び、このアプローチのお粗末な結果を見せつけた。
そしてステファネリが考えたやり方で撮影した方が良いと伝えたんだ。レオーネは「ステファネリは自分が欲するものを誰よりもよく
知っている。」と言ってたよ。ブロンソンは恨みがましく、カンカンになった。本当に気に触ったんだ。その時から私と話をしなくなった。
それで私たちの会話は第三者を経由することになったよ。彼、ブロンソンはこの瞬間から私のことが嫌いになったのさ。
私があえて違った意見を提示し、それを実行したからさ。しかしマリオ、これが私の仕事なんだ。ブロンソンはブロンソンの仕事、
私は私の仕事さ。ブロンソンはスーパースターだってことを見せびらかしたんだ。私はスーパースターに対して何も思ってはいないよ。
彼らに敬意を払っているが、彼らにも私の専門分野に敬意を払ってもらいたいものさ。ブロンソンは私のアシスタント・スタッフに、とても厳しく当たった。
ローマにいる製作会社の人間に働きかけて、私の専属のドライバーと衣装係をクビにさせたんだ。振るまいにちょっと欠点があったというだけでね。
マーロン・ブランドは違っていた。彼は製作会社の人間、一般的に尊大な人間が嫌いだった。「ケマダの戦い」を撮影している時、ジャロ・ポンテコルボに
対して彼はそうしたよ。彼は怒って、現場を立ち去ったんだ。ブランドはシンプルな撮影隊クルー、普通の人々との仕事を愛していて
、プロデューサーが嫌いだったんだ。マーロン・ブランドが現場を去って数ヶ月しても、映画は完成しなかった。ジャロはブランドに会いに行き、
仕事を再開してくれるようひざまづいて頼んだんだ。「見ろ、マーロン、私たちの家族はみんな君の帰りを待っているんだ。このことが分かるかい?」
ブランドは映画を完成させた。彼はつつましい労働者に最大級の敬意を持っていたんだ。

MM そういった面でレオーネはどうでしたか?誰に対しても公平でしたか?

BS 疑うべくもないことだね。確かに彼は仕事でミスをした人間には厳しかった。正真正銘のバカは許さなかった。
「続・夕陽のガンマン」で橋のまわりに12台のカメラを設置した話をしよう。橋はスペイン軍の手で爆破の準備がされた。
スペイン人の努力をたたえ、レオーネは爆破ボタンをスペインの将校に渡した。全てが準備された時、レオーネはカメラを回すよう指示を出し、
ついで爆破ボタンを押すよう指示した。将校がボタンを押したが・・・何も起こらなかった。レオーネはスペイン軍の連中を地獄に送った。
ついでスペインの特殊効果担当の男が引き継ぎ、すべてをやり直した。レオーネは指示をだし、「PRONTI!」と叫んだ。
英語じゃ「用意!」という意味だった。ところが特殊効果担当の男は「PRONTI!」には自分も含まれると思って、爆破ボタンを押してしまったんだ・・・。
橋は吹き飛んでしまった。カメラが1台も回る前にね。レオーネがその男を生きたまま、食わんばかりの顔をしていたのを覚えているよ。
彼もまた地獄に送られた。結局、ローマからバチウッチが来て、あとを引き継ぎ、橋は再建された。そして再び粉々に爆破されたんだ。
レオーネは完全主義者だった。彼自身、プロフェッショナリズムの化身だった。だから現場でアマチュアな振るまいは許せなかったんだ。
しかし誰にも公平だったのは確かさ。

MM ベニト、あなたが架空の美しい世界を創造するために尽力されてきた事に感謝します。
あれらは私の人生でとても重要なものでした。また今日のインタビューに時間を割いていただいたことにも感謝します。

BS マリオ、君に会えて良かった。アルメリアでのロケ地探し、頑張ってくれ。



  
左から「夕陽のガンマン」「復讐のガンマン」「怒りの荒野」



ローマの農場にて

1999年夏 撮影 マリオ・マーシリ氏


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